昭和回顧録

僕は昭和56年(1981年)生まれで、バリバリの昭和世代です。
祖父母などは大正生まれ、周りを見ても明治生まれの人が珍しくない
という時代です。

おそろしく便利になった現在、当時を振り返って“良かったな、面白かったな”
と思う事もあり、無分別にいくつか回顧してみたいと思います。
※元号としての昭和は1989年までですが、平成をまたぐものも含め
その辺は緩く挙げています。

回顧する前に

僕は3歳~12歳まで、大阪府吹田市の「江坂」という所に住んでいました。
その期間以外はずっと泉北ニュータウンです。
泉北ニュータウンについては過去記事に書いています↓
https://tsumakan.blog/post-133/
https://tsumakan.blog/post-141/
https://tsumakan.blog/post-149/

江坂は当時から東急ハンズがあったりし駅前は栄えており、
御堂筋線の北大阪急行で、梅田までも10分かからず、
また新幹線の新大阪駅には2駅と、都心に近く大変便利な場所ですが、
御堂筋線を軸に少し東西へ行くと、それぞれ昔ながらの下町が広がっているという
面白い地域でした。

そんな場所で多感な幼年期を過ごしたことは、後の人間形成の上で、
少なからず影響を与えました。

ランダム回顧スタート

傷痍軍人
よく母と自転車で阪急の荘内へ買いものに行ってたのですが、
ときおり駅の踏切付近で、白装束で台に乗って立っているのを見ました。
足が無い人、盲目の人を覚えていますが、傍らに読めない難しい字で
何やら書いた看板を立てて白装束でたたずんでいる姿は、
子ども心に正直怖かったです。
母に言われ1度かんぱしたことがあるのですが、大声で「おありがとうございます!」
と言われ、泣きそうになりながら逃げ戻った記憶があります。
賛否あるようですが、傷痍軍人という存在自体が、戦後の残り香を示す1つの要素だと
思います。

市場
市場といっても現代で想像するようなものではなく、明らかに戦後の闇市から
続けてきたんだろうな、という市場がいくつかありました。
特に千林商店街から脇道に入り、ダイエーへ至る途中にあった市場を
よく覚えていますが、僕の中での市場イメージを集約すると以下です。
・各店がバラックのようで、そういった店がランダムに密集している。
・市場内の道は迷路の様。
・地面はガッタガタのアスファルトでいつでも小さな水たまりだらけ。
・各店が通路まで覆うほどのビニールや布の「庇」を張り出しており、
その下を縫い歩くイメージ。
・魚屋、八百屋は店先に商品を並べ、ハエ取り紙とハエ除けの超ぶっとい
線香を焚いている。その匂い=市場が刷り込まれる。
・庇からバネやゴムで“ザル”を吊るしており、それが「レジ」。

車にしめ縄
お正月には街を走るほとんどの車のフロントグリルに“しめ縄”が
付けてあった。(うちの家では付けてませんでした。親曰く「ダサいから」)

どこでも喫煙可
電車の駅構内はもちろん、各種施設内のほとんどの場所でそこら中に灰皿があり、
基本的にどこでも吸えた。ポイ捨ては当たり前。
僕の記憶だと1990年代後半くらいから「公共スペース」での灰皿撤去&禁煙
が一気に広まったように思う。

テレビはリモコンなしの“ガチャガチャ式”

小学校低学年くらいで買い換えましたが、それまではこんなテレビでした。

電話はもちろん「黒電話」

まさしく小学校3~4年頃までこれでした。
自宅はもちろん、親戚、父の勤め先、仲の良い友達など、少なくとも10個くらいは
電話番号を覚えていましたし、周りでもそれくらい当たり前だった気がします。

祝日やお正月は国旗を掲揚
個人の一戸建て住宅や、商店、百貨店や銀行などの施設入口などに
国旗をかかげている事が多かったです。
今でも稀に見ますが、個人宅はほとんど無いですね。

 

時代が違うので当たり前ですが、現在の常識と当時の常識では
かなり違う部分があり、改めて思い出してみると面白いです。
特にモラルやマナー面では今では考えられない事も多々あり、
良い意味でも悪い意味でも「緩く」「おおらか」であった、とも
言えるのではないでしょうか。

他にも当時の流行りやブームなども回顧しますが、
また長くなりそうなので、次回に続けます。