知足~”足るを知る”ことの重要性~
怪しげなカウンセリングみたいですが、とても大事な事ではないかと
僕自身感じている事なので、書いてみたいと思います。
『知足』とは?
ネット辞書には
「己の分をわきまえて、それ以上を求めないこと。分相応のところで満足すること。」
とあります。
老子の言葉であり、また禅語でもあるようです。
似た言葉に「自足」というのもありますが、こちらは
・自分の置かれた状況に満足すること
・必要なものを自分で間に合わせること
との事なので、「知足」がなければ「自足」することもないと言えますし、
そもそも「自」と「他」という観点が違います。
満足しない人たち
僕は欲深い人間です。
好きなもの、事が多く、物質的なものに関しては「あれこれ手に入れたい」という気持ちが
常にあります。
そして、自分が欲しいものを他人が手に入れたら羨ましいし、嫉妬もします。
でもそういった事があるたびに、結局は手に入れられない自分の無能さを恨み、
幻滅するといった「負の感情」として自分に返ってくるのです。
そんな「負の感情」を自らの中に生み出して、それが「良い事」な訳ありません。
僕はいつしかそんな強欲な自分と、「欲」自体をどうにかできないものかと考え、
言葉ではまだ知らないものの、いつの間にか何となく「知足」を知っていったように
思います。
■基本的に人は何か欲しいものを手に入れてもそこで満足はせず、
また違う新たな欲が出て、それはキリがないのでは?
■手に入れられないのは自分の稼ぎや行動力などの努力・実力不足では?
↓
今の己の器をよく知り受け入れたら、自分の持つ「欲」に懊悩することが
いかにバカバカしい事かが自ずと見えてきた
こういった経緯です。
欲の“メリット”をコントロールする
とはいえ、「欲しいものがありそれを手に入れたいから頑張る」といったように
欲が、活力や頑張るための原動力となる場合も多々あります。
これは欲のもたらす「メリット」とハッキリいえます。
しかし先述したように欲にはキリがありません。
ではどうすればいいか?
僕は、努力によりある欲を叶えたとして、“その後”が大事だと思います。
ある欲を叶えたらそれで満足して終わりではなく、
その努力はどういったものだったのか、人からの協力や運もあったのではないか
などと、冷静に振り返ってみます。
すると案外、自分1人の力だけではないな、と言った場合も多く、
自ずと謙虚になります。
欲をエネルギー源として活用しつつ、振り返りなどを通じて
うまくコントロールすることにより、
己を知り、周りを知る良い機会になりえます。
すると、物欲的観点とは違う心の満足が得られ、結果的に分相応の満足=知足を得る
ということになります。
辛い経験から得る知足
自分や、家族など大事な人が病気やケガなどで辛い経験をした人ほど
知足をわきまえているように感じます。
もちろん病気ケガだけではありません。
何かしら地獄の経験をした人は、総じて俯瞰して物事を捉えられたり、
ある種“達観”してる人などが多いような気がします。
それが達観なのか、諦念なのかは難しいですが、
「この苦しみが無くなるなら何もいらない」と、一瞬でも思った経験が
心やその人の人生観に作用しているのではないか、と推測します。
僕自身がそうでした。
妻が病気になった時、「妻が元気でいてくれさえすれば何も望まない」と
心から思ったものでした。
残念ながら、無事にすんで日常が戻るにつれそんな「無欲さ」はどこへやら・・
といった状態ですが。
でも1度でもそんな経験をした人は、その時の気持ちは簡単には忘れません。
表面的には、今まで通りの自分として日々過ごしますが、
「欲のせいで悩む」とまではいくことは少ないのではないか、と思います。
「元気でいるだけのことがどれほどありがたいことか」
「普通の日常を送れる事がどれほどありがたいことか」
といった事を感じた経験がある人は、その時点で「足るを知」っているでしょう。
まとめ
僕たち一般人が高僧や修行僧かのごとく我欲を捨てて生きることは
出来ませんし、そもそもしなくても良いでしょう。
でも、己の分(立場や器)を知ってその時々で深い満足を得られる、ということは
この生きにくい社会の中で幸せに生きる為の有力な術となるのではないでしょうか。
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