憧憬の人

普段使う言葉で「ファン」と「憧れの人」だとちょっとニュアンスが違います。
調べると、「ファン」は、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者とあります。
一方「憧れ」は、理想とする物事に強く心が引かれること。
これが人物だと、憧れの方はより自分の感性に沿った上で、極めて個人的な
意味合いも含め、その人の何かに“心が引かれる”事だと思います。

 

憧憬の人と青春

誰しも若かりし頃、憧れた人物の1人や2人は居るのではないでしょうか。
それは先輩であり、友人であり、タレントや俳優かもしれません。

僕の場合は海外ミュージシャンやハリウッドスターなど色々ありましたが、
そのすべては「ファン」であり、あまりに現実離れした遠い存在でした。
初めて「憧れ」を感じたのは小学校6年の頃、松田優作でした。
そのカリスマ性や男くささ、ストイックな役者魂を表す数々のエピソード、声、雰囲気。
どれをとってもカッコよく、僕の中で強烈な印象とともに、素直に「憧れ」ました。
ただ彼は僕が8歳の頃に無くなっており、全てが後追いでしたので、
やはりいつの間にかただの「いちファン」となっていました。

そして唯一、その生き方や考え方などに影響を受け、憧れた人物と
高校生くらいに出会います。それは中島らもでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/中島らも

 

中島らもとの出会い

高校3年生ごろ、家にあった「今夜すべてのバーで」という私小説をたまたま読み、
「おもろい人やな」と感じ、エッセイを中心にその後大方読みました。
そのアホさ加減や退廃的な生き方、シニカルの中にある温かさ、ロックなど、
同じ「関西人」という視点も相まって、大変影響を受け、
大学生から僕も髪を伸ばし、デカダンスを標榜し出しました。

今思うとキザ、ロマンチスト、矛盾など少々鼻につくように感じられますが、
らもと同じように比較的裕福な家庭で育ち、ロックにのめりこみ、次第に
ドロップアウトしていく様は、深い共感とともに憧れずにはおれない魅力があったのです。

特にそのエッセイから感じる清濁併せ持った生々しい彼の人間性と、
関西人的「笑い」のエッセンスは、やはり今でも魅力的であり、
また稀有な存在であったと感じます。

僕の10代後半~20代前半の青春は、中島らもとともにあったと言っても過言ではありません。
らもの本を読むと、今でもあの青臭い時期の感情がよみがえります。
未読の方はぜひ読んでみてください。
「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」を最初に読むのがオススメです。

 

まとめ

歳とともに「憧れ」の形も変わり、酸いも甘いも人生経験が増えてくると
若いころのように「この人になりたい!」というような強烈な憧れの気持ちは
あまり起こらなくなってきます。

それが良い悪いという事ではなく、若いころの何か鬱々とした気持ちや怒りなどの
衝動は、つまりエネルギーだと言えます。

そのエネルギーが徐々に費える代わりに、何か自分が狡猾な大人になっていく気が
するのです。
そういう時、若いころの憧憬の人を思い出してみるのもいいかもな、と思うのです。